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◆阪神・淡路大震災救援活動
■出発までに
 95年1月17日阪神大震災発生。3日後の3月20日から募金活動を始めた学生たちは、現地にすぐ行こうとやっきになっていました。しかし、奥尻島の経験から、災害現場では車がなければ思うような活動ができないことがあり、そのための資金のあてが全くなかったのです。またそれと同時に学生は後期試験の真っ最中であったこともネックとなっていました。日一日と時間がたち、焦りを感じているとき、ラオスの活動に対して、日本船舶振興会に話をした経緯があったことから連絡をとったところ、驚きの答えがかえってきました。私たちが考えていた計画の、ワゴン車6台・トラック3台のレンタカー代10日間分の費用を受け入れていただいたのです。移動手段が確保されたことで、次の問題である50人の衣食住の確保に取り組みました。手当たり次第に企業(食品メーカー等)への協力依頼の電話をかけました。企業自体で直接被災者に救援物資を送っているので、出せないという返事が多かったこともうなずける環境でした。それでも少しで良ければということで協力いただいた企業もたくさんありました。また安く購入させていただいた企業もありました。50人で10日間、1500食の食料とポリタンクに40本の水を用意しました。
 その他、世田谷区教育委員会が50人分のテントを貸してくれることになりましたが、冬用のテントではありませんでした。また、移動のための高速代は、世田谷警察を通して世田谷区が緊急車両のプレートを発行してくれました。多くの方々の協力により、出発の準備が整いました。
 ところが、現地との連絡がなかなかとれず、最初につながったのは東灘区の区役所でした。50人で行く旨を伝えたところ、東京消防庁が明日引き上げるので、すぐ来てくれということでした。それは、遺体が山積みとなり、いたみ出しているから、すぐ来てくれということでした。
 主力である国士舘の学生の試験最終日が1月27日ということで、それまで動けず、27日の夜9時出発と決めました。途中の交通渋滞を考えた時、夜の出発はやむを得ない選択でした。50名の学生が、ワゴン車6台・トラック3台のキャラバンで、神戸の東灘区の区役所に着いたのは、17時間後の1月28日午後2時でした。区役所では、予想通りパニック状態で、日一日と変わる現場の状況に、対応できない状態でした。とりあえず、役所の情報とボランティアの情報を集め、50人がテントを張る場所としての、公園・グランドは被災者があふれており、場所がないことを確認し、予定していた神戸から北へ30キロの三木市にある厚生省の施設(グリーンピア三木)に移動しました。到着は東京を出てから22時間後の午後7時でした。真っ暗になったキャンプ場にテントを設営しベースキャンプとしました。
■活動開始
ここは兵庫県災害対策本部救援物資備蓄基地となっており、大型トラックが数珠繋ぎとなっていました。大型トラックで入ってくる救援物資は、人手が圧倒的に足りない状況で、学生たちは、自衛隊・消防と一緒に作業を行いました。物資は大量に入ってくるものの、配送するトラックが全くない状況でした。
 翌日情報収集に神戸市内に行き、公園やグランドで生活している人に、物資を至急届けなければならないことを確認し、即刻、東灘区の本庄中学・灘区の聖徳小学校・長田区の長田高校に5名ずづ派遣し、被災者に対する直接的な救援活動を行いながら、近くの避難所や公園を周り、足りない物のオーダーを聞き、本部から、交通渋滞のない、夜間10時位にトラックに物資を積み、各オーダーを受けた避難所に配送しました。
 食事は食事当番が3食自炊し、日中は物資の積み卸しや仕訳作業を行い、夜の配送が終わるのは、午前3時から4時。時々雪が舞う山の中でのテント生活は、毎朝起きると、テントの中の飲み水が凍っていました。男子も女子も10日間一回も風呂にも入らず、1日3〜4時間の睡眠で、誰一人として病人がでませんでした。これは、あまりにも現実離れした光景が目の前に起こっていることへの恐怖感と緊張感、そして何かをやらなければならないという使命感が彼らを支えたのだと思います。人間の持っている潜在的な精神力と体力に驚かされました。また、色々な大学から、たくさんの学生がボランティアで来ました。彼らは、食料も寝る所もないので、私たちと活動を共にしました。しかし、その学生は、1日か2日でいなくなりました。直接の災害現場ではなく、被災者の顔の見えない場所での作業は、私たちが奥尻島で感じたことと同じ心境であったのだろうと思います。
■救援物資
 全国からたくさんの救援物資が届きました。その配送や仕訳作業を行っているとき、被災者に対して心温まるメッセージが同封されている物もありました。その一方で家庭にある不要物を送ってきた人もいました。たとえば、カビの生えた靴、割れた食器、破れた洋服などです。
 救援物資は基本的に、災害直後に必要な物と、その後必要な物がありますが、個人の救援物資は、災害直後には配る方法がありません。水筒にお湯を入れて送ってきた人がいましたが、気持ちは分かりますが現実には役に立ちません。また、送られてきた段ボールが直接被災者に届くことはまずありません。送られてきた段ボールは、開封され中身を分類します。たとえば子供服の場合、まず男女、乳幼児、幼児、児童と分類し、次に上着・下着と分類し再び段ボールに梱包します。このことは、大量の救援物資を、誰かが整理をしなければならないということです。ケースバイケースでしょうが、個人の救援物資はその整理に大量の人手が必要となりますので、義援金が一番効果的であると考えます。

10日間の活動を終えた帰京の日、
避難所の人たちが我々50名分のおにぎりを握って持たせてくれました。
「今度は東京で地震があったときは、必ず行くから」と住民に見送られ、
神戸市役所に募金で集めた210万円を義援金として寄贈し帰京しました。

■第2次救援隊
 東京に戻ってから、再び多数の避難所から、救援要請を受け、2月19日神戸に向けて28名の学生が出発しました。山手小学校(中央区)をベースに東灘中学校(東灘区)等に隊員を派遣し、様々な活動を展開しました。
 基本的な活動は被災直後(1次隊派遣時)の物質的援助活動から、復興に向けての精神的ケアに対する需要へと移行しつつありました。
 広い体育館の中は被災者で溢れ、段ボールに仕切られた空間だけが家族の居住空間という厳しい環境でした。しかし何よりも、被災時の恐怖感や喪失感、そして絶望感に満ち溢れていました。
 そんな状況のなか、学生達は試行錯誤の上、一つの試みを行いました。
「住民が気軽に喫茶歓談できる場所を作ろう!」ということで、校舎の一角を借りて、椅子や机等、物資を使って手作りで完成させたのが「国士茶屋」です。長期間にわたる避難生活の束の間の一時。ある被災住民と学生はこんな会話をしていました。
「おばちゃん、東京に帰ってもまたすぐに神戸に来るよ!」
「すぐに来んでええ、それより10年後に来たってや!その頃には地震の前より何倍にも復興した神戸を見せたるわ!」と。被災直後の絶望的な状況から、少しずつ復興に向けて自ら立ち上がり始めた住民の心強さを肌で感じつつ、短い活動期間が終わりました。

 その後も一部の学生たちは、まだまだ救援活動を必要とする避難所に個人的に学校が始まる4月の初旬まで、活動を続けた者もいました。

  
■ボランティア・マニュアル 
 余談ですがボランティに行った者が社会復帰をするためのマニュアルが「アメリカ赤十字社」から配られていました。これは大変参考になりました。要するに、派遣に行った者は、異常な環境下にいるわけで、そのまま仕事や社会に復帰すると、現実の環境に対して、適応できないことがあります。たとえば「そんな小さなことで、ごちゃごちゃ言うな、災害現場では云々」などと話したり、家族に対しても同じように振る舞ったりする。家族は家族でいない間心配していたわけですから、突然災害現場の価値観で話をされても困るわけです。マニュアルには2〜3日ゆっくりと静養して、家庭や社会に復帰することがのぞましいと書いてありました。ボランティアに行くためのマニュアルは日本にもあるかもしれませんが、社会復帰をするためのマニュアルがあることにボランティアの先進国だと感心いたしました。

 阪神の救援活動に対しては、
翌96年8月に当時の厚生大臣、
管直人氏より感謝状を頂きました。


(厚生大臣より表彰)





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